幸せはどこにあるのか?
率直に聞かれると少し戸惑いますね。
ギリシャの哲学者アリストテレスは、「幸せはあらゆる人間の究極の目標」と述べています。
人は幸せになるために生きていると言っても過言ではありません。
でも何が幸せなのかを一言で説明するのは難しいですね。
今求める欲望が実現出来たら幸せか?と聞かれたら、そうとも限らない。
事業で成功したから、裕福な生活が出来ているから、子供が有名大学に進学したから、意中の人と結婚出来たから、だから一生涯幸せ、とは限りませんね。
目標を成し遂げた時に達成感と充足感はありますが、また新たな苦労や悩みが生まれる可能性はあります。
幸せを感じるセンサーが発動するとき
人生において若くて健康な時期、元気で活動出来ていることに意識を向けて、そのこと自体に幸せを感じることはほぼ無いでしょう。
それは幸せを感じるセンサーが「自分の若さと健康」に向いていないからです。
ですが、年を取って体力や気力が落ちてくると、「あの頃は元気で良かった」と若かりし日々を思い返してため息をついたり、活発な若者の姿を見て眩しく感じたりするようになります。
幸せを感知するセンサーが、今の自分ではなく「若い頃の若さと健康」に向かうからです。
では今現在はどうでしょう?
体力は衰えたけど、食事は美味しく取れていますか?夜はゆっくり眠れていますか?日常生活でホッとする時間はありますか?自分の足でどこへでも行けますか?
もし出来ていたら、それって幸せなことじゃないですか?
今自分の持っているものに「幸せ感知センサー」を向けてみると、見えてくるものが変わってきますね。
幸せはどこにあるのか?
この「幸せ感知センサー」は自分の中にあるもので、「幸せはどこにあるのか?」という問いの答えがここにあります。それは、
「幸せは自分自身の中にある」
です。
幸せそうな人を見るとき、ほとんどの人はその人の外見や生活環境から「幸せそうだ」と判断します。
経済的余裕があり、安定した生活環境の人が、いつも笑顔で身なりもきちんとしていれば「幸せそうな人」に見えますが、実際のところは本人しか分かりません。
もしかしたら、仕事で忙し過ぎて自分の時間が持てない、安定した生活を守るため、やりたいことが出来ていない、本当は寂しさを感じていても人前では笑顔で取り繕っている、というような、本人にしか分からない悩みがあるかもしれません。
でも何故か人間は、他人と自分とを比較して自分への「幸せ感知センサー」を鈍らせてしまいがちです。
そして、幸せが自分の中にあることに気付きにくくなるのです。
幸せは他人が判断するものではない
世界で最も貧しい大統領と言われた南米ウルグアイのムヒカ元大統領は、
「貧しい人とは、ものを持っていない人のことではなく、豪華な暮らしを保つためだけに働き、次から次へと物を欲しがる人のことを言うのです」
と述べています。
人間の欲望にはきりがありません。追及すればするほど悩みや苦しみが生まれ、心は貧しくなります。
けれどこうした事実を分かっていても、人は自分と他人とを比べて自分の中の幸せに目を向けようとしません。
そして「幸せ感知センサー」が自分自身に働かなくなると、「自分は幸せではない」と嘆くことになります。
幸せになるためには、自分と他人を比べて嘆くのをやめて、意識的に「幸せ感知センサー」を働かせる必要があります。
闘病生活で感じた日々の幸せ
私事ですが、悪性リンパ腫で闘病生活を余儀なくされた現在、皮肉なことですが以前にも増して「幸せ感知センサー」が働くようになりました。
人間は何気ない日常の幸せには気付きにくいもので、それらを失うと、その価値や尊さを実感することがあります。
当たり前に出来ていたこと、好きなものを食べたたり飲んだり、好きな場所に行ったり、好きな仕事をして、好きな人たちと会って話して。
そうした日常がとても幸せでした。
でも、今はそれらを失っていても、こうしてPCの前に座って文章が書けることがとても幸せです。
少しですが、散歩をしたり、読書をしたり音楽を聴いたりも出来ます。
これからも、「幸せ感知センサー」を自分自身に向けて、そうした何でもない日々の中に喜びを感じて生きていきたいと思っています。
まとめ
幸せは自分自身の中にありますが、他人と自分を比べていてはそれに気付けません。
そして幸せは何気ない日常の中では意識しにくいので、常に「幸せ感知センサー」を自分自身に向けておきましょう😄
なるほど‼️